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入りぬるか飽かぬ別れの悲しさを
思ひ知れとや山の端の月

歌の意味
もう沈んでしまったのか。名残の尽きない別れの悲しさを思い知れというのか、山の端の月よ。
鑑賞
巻第九 哀傷歌 594

詞書「後入道法親王隠れ侍りて後、入り方まで月を見て、よみ侍りける」
 仁和寺の後入道法親王、すなわち覚性法親王が亡くなったのち、月が沈みかけるまで見つめていて詠んだ歌である。もう沈んでしまったのか、名残の尽きない別れの悲しさを思い知れというのか、山の端の月よ、と詠む。山の端に沈む月に、この世を去った法親王の入滅を重ね、見飽きることのない月との別れによって、法親王との別れの悲しさを改めて思い知らされている。覚性法親王は嘉応元年(1169)に没した。
 作者の「僧都印性」は平安時代末期の仁和寺の僧とみられるが、経歴の詳細は多く伝わらない。
 本巻の第五百八十八首は覚性法親王自身の歌で、母の待賢門院をしのぶものであり、本歌はその法親王を悼む歌となっている。

 初句「入りぬるか」の「ぬる」は完了の助動詞「ぬ」の連体形、「か」は詠嘆をこめた疑問で、もう沈んでしまったのか、の意である。月が山に入ることに、法親王の入滅を重ねる。ここで句切れとなる。
 二句「飽かぬ別れの」の「飽か」は満ち足りる意の「飽く」の未然形、「ぬ」は打消しの助動詞「ず」の連体形で、名残の尽きない別れの、の意である。
 三句「悲しさを」は、法親王との別れの悲しさを、の意である。
 四句「思ひ知れとや」の「や」は疑問の係助詞で、下に「入りぬる」などの語が省かれている。思い知れというのか、の意である。
 結句「山の端の月」は体言止めで、呼びかけの対象を最後に示す。本巻の第五百六十首、第五百七十六首、第六百三首にも、亡き人をしのんで見る月が詠まれ、第六百首は「山の端に」たなびく雲を詠む。

いりかた:月が沈もうとするころ
やまのは:空と接する山の稜線
あく:満ち足りる、飽きる
作者
印性
出典
千載和歌集
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三年まで馴れしは夢の心地して 今日ぞ現の別れなりける
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