播磨潟須磨の晴れ間に見渡せば
波は雲居のものにぞありける
- 歌の意味
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播磨潟の須磨の晴れ間に見渡すと、はるか遠くの波は空のものであったよ。
- 鑑賞
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巻第十六 雑歌上 1047
詞書「広田社の歌合とて、人々詠み侍りける時、海上眺望といへる心を詠み侍りける」
前歌と同じく、広田社の歌合で「海上眺望」の題で詠んだ歌である。播磨潟の須磨の晴れ間に見渡すと、波は空のものであった、と詠む。晴れわたった須磨の海を見渡すと、はるか沖の波は水平線で空と溶け合い、まるで空に立つ波のように見えるという、雄大な海の眺めを詠んでいる。
作者の「権中納言実宗」は藤原実宗である。藤原公通の子で、のちに内大臣にのぼった。
本巻の第九百八十九首と初句二句「播磨潟須磨の」を共有する。第九百八十九首が須磨の月夜を詠むのに対し、本歌は須磨の晴れ間の海の眺めを詠む。また次歌の第千四十八首とは三句「見渡せば」、「雲居」の語を共有している。
初句「播磨潟」は、播磨国の海である。本巻の第九百八十九首の初句と同じ句である。
二句「須磨の晴れ間に」は、須磨の空の晴れた間に、の意である。本巻の第九百八十九首の二句「須磨の月夜め」と応じる。
三句「見渡せば」は、はるかに見渡すと、の意である。次歌の第千四十八首、第千四十九首の三句と同じ句である。
四句「波は雲居の」の「雲居」は空の意で、波は空の、の意である。次歌の第千四十八首の四句「雲居にまがふ」と応じる。
結句「ものにぞありける」の「ぞ」は強意の係助詞で、詠嘆の助動詞「けり」の連体形「ける」で結ぶ。空のものであったよ、の意である。
はりまがた:播磨国の海
くもゐ:空、雲のあるところ
- 作者
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藤原実宗
- 出典
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千載和歌集
- 前の歌
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今日こそは都のかたの山の端も 見えずなるをの沖に出でぬれ
- 次の歌
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はるばると御前の沖を見渡せば 雲居にまがふ海人の釣舟