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月影の常にすむなる山の端を
隔つる雲のなからましかば

歌の意味
月の光が常に澄み、仏が常に住んでいるという山の端を、隔てる雲さえなかったならば、いつでもその月を仰ぐことができるだろうに。
鑑賞
巻第十九 釈教歌 1207

詞書「後冷泉院御時、皇后宮に一品経供養せられける時、寿量品の心を詠める」
 後冷泉天皇の御代、皇后宮で法華経二十八品を一品ずつ分けて書写し供養した折、如来寿量品の心を詠んだ歌である。月の光が常に澄む山の端を、隔てる雲がなかったなら、と詠む。寿量品には、仏は入滅したように見えても、常に霊鷲山にあって法を説いていると説かれる。常住の仏を山の端の月に、それが見えない衆生の迷いを雲にたとえ、迷いさえなければ仏に会えるのにと願う心を詠んでいる。
 作者の「藤原国房」は平安時代中期から後期の官人で、伝記の詳細は明らかでない。
 本巻の第千二百三十一首も寿量品の心を詠み、本歌が雲に隔てられた月を、同歌が入ったと見られる月を詠んで、ともに常住の仏を月にたとえている。

 初句「月影の」の「月影」は月の光で、常住の仏をたとえている。
 二句「常にすむなる」の「すむ」は、月が澄む意と、仏が常に住む意とを掛けている。「なる」は伝聞の助動詞「なり」の連体形で、と聞く、の意である。
 三句「山の端を」は山の稜線のあたりで、仏が常に法を説くという霊鷲山を思わせる。
 四句「隔つる雲の」の「雲」は、仏を見えなくする衆生の迷いをたとえている。
 結句「なからましかば」の「ましか」は反実仮想の助動詞「まし」の未然形で、なかったならば、の意である。言いさしの形で、仏に会えるだろうにという思いを余情として残している。

すむ:月が澄む意と、仏が常に住む意とを掛ける
いつぽんぎやう:法華経二十八品を一品ずつ分担して書写し供養すること
じゆりやうほん:法華経如来寿量品、仏の寿命が永遠であることを説く
作者
藤原国房
出典
千載和歌集
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求めてもかかる蓮の露をおきて 憂き世にまたは帰るものかは
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