花ゆゑにかからぬ山ぞなかりける
心は春の霞ならねど
- 歌の意味
-
花のために、私の心がかからない山はなかったことだ。心は春の霞ではないけれど。
- 鑑賞
-
巻第一 春歌上 49
詞書は前の歌に続き「寛治八年前太政大臣の高陽院の家の歌合に、桜の歌とてよめる」
前歌と同じく、寛治八年(1094)の高陽院の歌合で「桜」を題として詠んだ歌である。桜を慕うあまり、私の心が懸からない山は一つもなかったと詠み、心は春の霞ではないけれど、と付け加える。どの山にもかかる春霞のように、花の咲く山という山に心が懸かるさまを機知をもって表している。
作者の「藤原顕綱朝臣」は参議藤原兼経の子の藤原顕綱である。讃岐守などを務め、讃岐入道と呼ばれた。讃岐典侍日記の作者藤原長子の父である。
初句「花ゆゑに」は、花のために、の意である。本巻の第六十二首も同じ初句で始まり、花ゆえに山をさまよう心を詠む。
二句「かからぬ山ぞ」の「かかる」は、心が引きつけられる意と、霞が山にかかる意とを重ねる。「ぞ」は係助詞で、三句の「ける」と係り結びをなす。
三句「なかりける」は、なかったことだ、の意で、ここで句切れとなる。
四句「心は春の」は、結句の「霞」にかかる。
結句「霞ならねど」の「ね」は打消の助動詞「ず」の已然形、「ど」は逆接で、霞ではないけれど、の意となる。二句の「かかる」が霞の縁であることを種明かしする倒置の形をとる。
かかる:心が引きつけられる意と、霞が山にかかる意を重ねる
- 作者
-
藤原顕綱
- 出典
-
千載和歌集
- 前の歌
-
山桜匂ふあたりの春霞 風をばよそに立ち隔てなむ
- 次の歌
-
桜花多くの春に逢ひぬれど 昨日今日をやためしにはせむ