伊勢の海の千尋の浜に拾ふとも
今は何てふかひかあるべき
- 歌の意味
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伊勢の海の千尋の浜で貝を拾ったとしても、今となっては何の甲斐があるだろうか。
- 鑑賞
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巻第十三 恋歌五 927
詞書「西四条の斎宮まだみこにものし給ひし時、心ざしありて思ふこと侍りけるあひだに、斎宮に定まりたまひにければ、そのあくるあしたに榊の枝にさしてさし置かせ侍りける」
伊勢の海の千尋の浜で貝を拾ったとしても、今となっては何の甲斐があるだろうか、と詠んだ歌である。思いを寄せていた皇女が斎宮に定まり、もはや恋のかなわない身となったことへの絶望を、伊勢の浜の貝に託して詠んでいる。
詞書によれば、西四条の斎宮がまだ皇女でいらした時に思いを寄せていたが、斎宮に決まってしまったので、その翌朝、榊の枝に結びつけて置かせた歌である。西四条の斎宮は醍醐天皇の皇女雅子内親王とされる。斎宮は伊勢神宮に仕えるため、伊勢の海に寄せて詠んでいる。巻頭の第八百九十一首以来、本巻には伊勢の海の歌が繰り返し配されている。
作者の「あつただの朝臣」は藤原敦忠である。左大臣藤原時平の三男で、権中納言に至った。三十六歌仙の一人で、小倉百人一首には「あひ見ての後の心にくらぶれば」の歌が採られている。
初句「伊勢の海の」は、伊勢の海の、の意で、斎宮となって伊勢へ下る皇女を思わせている。
二句「千尋の浜に」は、伊勢の千尋の浜で、の意で、千尋という果てしない深さを思わせる地名を用いている。
三句「拾ふとも」は、拾ったとしても、の意で、「とも」は逆接の仮定を表す接続助詞である。
四句「今は何てふ」は、今はどういう、の意で、「てふ」は「といふ」のつまった形である。
結句「かひかあるべき」は、甲斐があるだろうか、いやない、の意で、「かひ」に浜で拾う「貝」と「甲斐」を掛けている。「か」は反語の係助詞で、連体形「べき」で結んでいる。
さいぐう:天皇の代わりに伊勢神宮に仕える未婚の皇女
さかき:神事に用いる常緑の木、榊
かひ:浜で拾う「貝」と、効き目の意の「甲斐」を掛ける
- 作者
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藤原敦忠
- 出典
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後撰和歌集
- 前の歌
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さざら波間なく立つめる浦をこそ 世に浅しとも見つつ忘れめ
- 次の歌
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忘れねと言ひしにかなふ君なれど 訪はぬはつらきものにぞありける