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我が袖の涙やにほの海ならん
かりにも人をみるめなければ

歌の意味
私の袖の涙は、鳰の海なのだろうか。かりそめにもあの人に逢う機会がないので。
鑑賞
巻第十四 恋歌四 855

詞書「崇徳院に百首歌たてまつりける時、恋歌とて詠める」
 崇徳院に奉った百首歌、いわゆる『久安百首』で、恋の歌として詠んだ歌である。私の袖の涙は鳰の海なのだろうか、かりそめにも人を見る機会がないので、と詠む。袖を濡らす涙を湖に見立て、海藻の「海松布」と人を「見る目」とを掛けている。真水の湖である鳰の海には海松布が生えないことを踏まえ、涙が湖ほどにもなりながら、逢う機会は少しもないという嘆きを、機知に富んだ表現で詠んでいる。
 作者の「上西門院兵衛」は神祇伯源顕仲の娘である。待賢門院に仕えたのち、その娘の上西門院統子内親王に仕えた。待賢門院堀河の妹とされる。
 本歌から第八百六十首までの六首は、いずれも崇徳院に奉った久安百首の恋の歌で、一連をなしている。

 初句「我が袖の」は涙に濡れる自分の袖を示す。
 二句「涙やにほの」の「や」は疑問の係助詞で、三句の「ならん」と連体形で結ぶ。「にほの海」は鳰の海で、近江国の琵琶湖のことである。
 三句「海ならん」の「らん」は現在推量の助動詞で、鳰の海なのだろうか、の意である。袖の涙を湖に見立てた誇張の表現で、ここで句切れとなる。
 四句「かりにも人を」の「かり」は、海松布を「刈り」の意と、「仮」にもの意を掛け、かりそめにも、の意となる。「刈り」は「みるめ」の縁語である。
 結句「みるめなければ」の「みるめ」は、海藻の「海松布」と、人を「見る目」すなわち逢う機会とを掛ける。真水の湖には海松布が生えないことから、逢う機会がないことを言い表している。

にほのうみ:近江国の琵琶湖
かり:海松布を「刈り」の意と、「仮」にもの意を掛ける
みるめ:海藻の「海松布」と、人を「見る目」すなわち逢う機会とを掛ける
作者
上西門院兵衛
出典
千載和歌集
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