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花咲かぬ谷の底にも住まなくに
深くも物を思ふ春かな

歌の意味
花も咲かない谷の底に住んでいるわけでもないのに、こんなにも深くもの思いに沈むこの春であることよ。
鑑賞
巻第十七 雑歌中 1060

詞書「嘆くこと侍りける頃、詠める」
 嘆かわしいことがあったころに詠んだ歌である。花の咲かない谷の底に住んでいるわけでもないのに、深くもの思いをする春であることよ、と詠む。花の咲き誇る春のさなかにありながら、心は日の当たらない谷の底にいるかのように沈んでいる。谷の底の深さと物思いの深さを重ね、春の明るさとの隔たりによって悲しみを際立たせている。
 作者の「和泉式部」は越前守大江雅致の娘である。和泉守橘道貞の妻となったことから、この名で呼ばれる。上東門院彰子に仕え、情熱的な恋の歌で知られる。
 日の光の届かない谷を春の訪れない場所とする発想は、『古今和歌集』雑歌下の清原深養父の「光なき谷には春もよそなれば咲きてとく散る物思ひもなし」に通う。深養父が谷には物思いもないと詠んだのに対し、本歌は谷に住まない身の物思いの深さを詠んでいる。

 初句「花咲かぬ」は、春になっても花の咲かない、の意で、日の光の届かない谷を言う。
 二句「谷の底にも」は、深い谷の底にも、の意である。次歌の第千六十一首の初句「谷の戸を」と「谷」を共有する。
 三句「住まなくに」の「なくに」は、打消の助動詞「ず」の古い名詞形「なく」に助詞「に」が付いたもので、住んでいないのに、の意である。
 四句「深くも物を」は、深くもの思いを、の意で、二句の谷の底の深さと物思いの深さを重ねている。
 結句「思ふ春かな」の「かな」は詠嘆の終助詞である。

ものおもふ:思い悩む、もの思いに沈む
なげく:悲しんで嘆息する
作者
和泉式部
出典
千載和歌集
前の歌
憂き世をば峰の霞や隔つらん なほ山里は住みよかりけり
次の歌
谷の戸を閉ぢやはてつる鶯の 待つに音せで春の暮れぬる