- 歌の意味
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霊鷲山の月を、沈んでしまったと見る人は、暗闇に迷う心の持ち主であったのだ。
- 鑑賞
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巻第十九 釈教歌 1231
詞書「寿量品の心を詠める」
法華経如来寿量品の心を詠んだ歌である。鷲の山の月を入ってしまったと見る人は、暗きに迷う心であったのだ、と詠む。寿量品には、仏は方便として入滅を示すが、実は常に霊鷲山にあって法を説いていると説かれる。霊鷲山の月、すなわち仏が沈んだと見るのは迷いの闇の中にいる心のためで、仏は常にそこに照っていると詠んでいる。
作者の「円位法師」は西行である。俗名を佐藤義清といい、鳥羽院の北面の武士であったが、出家して諸国を旅した。家集に『山家集』がある。
本巻の第千二百七首も寿量品の心を詠み、ともに常住の仏を山の月にたとえる。同歌が雲に隔てられた月を、本歌が入ったと見られる月を詠み、どちらも仏が見えないのは衆生の迷いのためであるとしている。また本巻の第千二百四十九首は、仏の入滅を雲隠れした望月にたとえて悲しんでいる。
初句「鷲の山」は、釈迦が法華経を説いた霊鷲山のことである。本巻の第千二百四十六首の三句「鷲の山」と同じ語である。
二句「月を入りぬと」の「月」は仏をたとえ、「入りぬ」は月が山に沈む意で、仏の入滅を言う。「ぬ」は完了の助動詞である。
三句「見る人は」は、そう見る人は、の意である。
四句「暗きに迷ふ」は、闇の中に迷う、の意で、煩悩の闇に迷う衆生を言う。
結句「心なりけり」の「けり」は気づきを表す詠嘆の助動詞で、迷う心であったのだ、の意である。
わしのやま:霊鷲山、釈迦が法華経を説いたとされるインドの山
- 作者
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西行
- 出典
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