水草のみ繁き濁りと見しかども
さても月澄むえにこそありけれ
- 歌の意味
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水草ばかりが茂る濁った水と見ていたけれども、それでも月が澄んで映る入り江、仏との縁ある身であったのだ。
- 鑑賞
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巻第十九 釈教歌 1240
詞書「授記品の心を詠める」
法華経授記品の心を詠んだ歌である。授記品では、迦葉、須菩提、迦旃延、目犍連の四大弟子が、将来必ず仏になるという予言を授けられる。水草ばかり茂る濁りと見ていたが、それでも月の澄む江であった、と詠む。煩悩に覆われた濁った身と思っていた弟子たちにも仏となる縁があったことを、水草の茂る入り江に月が澄んで映ることにたとえている。
作者の「左京大夫季能」は藤原季能である。藤原俊盛の子で、左京大夫などを務めた。
法華経の品を順に詠んだ一連の二首目である。
初句「水草のみ」の「水草」は水に生える草で、煩悩をたとえている。
二句「繁き濁りと」は、繁った濁った水と、の意で、迷いに覆われた身を言う。
三句「見しかども」の「しか」は過去の助動詞「き」の已然形、「ども」は逆接の接続助詞で、見ていたけれども、の意である。
四句「さても月澄む」の「さても」は、それでも、の意で、「月」は仏の悟りの光をたとえる。本巻の第千二百十八首の三句「澄みぬれば」と同じく、水に澄む月によって仏となる性を示している。
結句「えにこそありけれ」の「え」は、入り江の「江」と、仏との縁の「縁」とを掛けている。「こそ」は強意の係助詞で、詠嘆の助動詞「けり」の已然形「けれ」で結ぶ。
え:入り江の「江」と、仏との縁の「縁」とを掛ける
みくさ:水に生える草
じゆき:仏が弟子に将来成仏することを予言すること
- 作者
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藤原季能
- 出典
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千載和歌集
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春ごとに嘆きしものを法の庭は 散るがうれしき花もありけり
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武蔵野の堀かねの井もあるものを うれしく水の近づきにける