春ごとに咲きまさるべき花なれば
今年をもまだ飽かずとぞ見る
- 歌の意味
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春が来るたびに、いっそう見事に咲きまさるはずの花なので、今年の花もまだ満ち足りない途中の姿だと見ることだ。
- 鑑賞
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巻第一 春歌上 46
詞書「兼輔朝臣の閨の前に紅梅を植ゑて侍りけるを、三年ばかりの後花咲きなどしけるを、女どもその枝を折りて、簾の内よりこれはいかがと言ひ出だして侍りければ」、また「初めて宰相になりて侍りける年になん」
藤原兼輔邸の紅梅が、植えてから三年ほどして咲いたのを見せられ、春ごとにますます咲きまさるはずの花だから、今年の花もまだ満足しきれないと詠んだ歌である。花の行く末を祝う言葉に、兼輔のこれからの栄達を重ねて祝福している。
詞書によれば、兼輔の寝所の前に植えた紅梅が三年ほど後に花を咲かせ、女房たちがその枝を折って、簾の内から「これはどうか」と差し出してきたので詠んだ歌である。それは兼輔が初めて宰相、すなわち参議になった年のことであった。
作者の「つらゆき」は紀貫之である。紀望行の子で、古今和歌集の撰者の中心となり、仮名序を書いた。土佐守を務め、土佐日記の作者としても知られる。三十六歌仙の一人である。
初句「春ごとに」は、春が来るたびに、の意で、年々の繁栄を予祝している。本巻の巻末にあたり、巻頭の第一首と同じく祝いの場の歌で巻を閉じている。
二句「咲きまさるべき」の「べき」は当然を表し、ますます咲きまさるはずの、の意である。兼輔の昇進の喜びを、花がいよいよ栄えることに重ねている。
三句「花なれば」は、紅梅を指す。兼輔邸の紅梅は本巻の第十七首にも詠まれており、遅く咲く花を待ちわびた兼輔の歌に、巻末で貫之が祝いの歌を返す形の配列となっている。
四句「今年をもまだ」は、今年の花もまだ、の意で、これからさらに盛りを迎えるという含みを持たせている。
結句「飽かずとぞ見る」の「ぞ」は係助詞で、連体形「見る」と係り結びをなす。今年の花もまだ見飽きない、さらに咲きまさる途中だと見ることで、兼輔の前途を祝っている。
ねや:寝所、寝室
さいしやう:参議の唐名
あく:満ち足りる、飽きる
す:簾、すだれ
- 作者
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紀貫之
- 出典
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後撰和歌集
- 前の歌
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降る雪はかつも消ななむ梅の花 散るにまどはず折りてかざさむ
- 次の歌
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植ゑし時花見むとしも思はぬに 咲き散る見れば齢老いにけり