又も来む時ぞと思へど頼まれぬ
我が身にしあれば惜しき春かな
- 歌の意味
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春はまた巡ってくる時だとは思うけれど、それをあてにすることのできない我が身であるから、いっそう惜しまれる春であることだ。
- 鑑賞
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巻第三 春歌下 146
詞書「弥生のつごもりの日、久しうまうで来ぬよし言ひて侍る文の奥に書きつけ侍りける/貫之、かくて同じ年になん身まかりにける」
春はまた巡って来るとは思うが、その時まで生きていられるとあてにできない身であるから、この春がいっそう惜しいと詠んだ歌である。来年の春を迎えられるかわからない老いの身の切実な思いが込められている。
詞書によれば、三月の末日、久しく訪ねられずにいることを詫びた手紙の終わりに書きつけたものである。添え書きによれば、貫之はこうしてその同じ年に亡くなったという。貫之の没年は天慶八年(945)ごろとされ、本歌は晩年の作である。第百四十一首から巻末の第百四十六首までは、春の終わりの日を惜しむ歌が続く一連である。
作者の「つらゆき」は紀貫之である。紀望行の子で、古今和歌集の撰者の中心となり、仮名序を書いた。土佐守などを務め、土佐日記の作者としても知られる。三十六歌仙の一人である。
初句「又も来む」の「む」は推量で、春はまた来るだろう、の意である。巻頭の第八十一首が我が身ひとつの変わりようを嘆いて始まったのに対し、巻末の本歌も「我が身にしあれば」と我が身を嘆いて結ばれ、本巻は我が身を嘆く歌で始まり、我が身を嘆く歌で閉じる配列となっている。
二句「時ぞと思へど」の「ぞ」は強意、「ど」は逆接で、また来る時だとは思うけれど、の意である。
三句「頼まれぬ」の「れ」は可能、「ぬ」は打消の連体形で、あてにすることのできない、の意である。
四句「我が身にしあれば」の「し」は強意で、そういう我が身であるので、の意である。巻頭の第八十一首の「我が身一つの」と呼応している。
結句「惜しき春かな」は、本巻の第八十四首、第百三十八首と同じ結句である。巻末に置かれ、春を惜しむ本巻の歌々を締めくくっている。
みまかる:死ぬ
つごもり:月の末日
- 作者
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紀貫之
- 出典
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後撰和歌集
- 前の歌
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暮れて又明日とだになき春の日を 花の影にて今日は暮らさむ
- 次の歌
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今日よりは夏の衣に成りぬれど 着る人さへは変はらざりけり