いづこにも咲きはすらめど我が宿の
やまとなでしこ誰に見せまし
- 歌の意味
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どこにでも咲いてはいるだろうけれど、我が家のなでしこは、刈り取られてしまった今、誰に見せたらよいのだろうか。
- 鑑賞
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巻第二 夏歌 132
詞書「家に咲きて侍りけるなでしこを、人の刈りつかはしける」
なでしこはどこにでも咲いているだろうが、我が家に咲いていたなでしこを人に刈り取られてしまった今、誰に見せればよいのかと嘆く歌である。愛でていた花を失った寂しさを、見せる相手を問う形で表している。詞書によれば、家に咲いていたなでしこを、人が刈り取らせて持って行ってしまったときに詠んだ歌である。
作者の「伊勢」は、平安時代前期から中期の女流歌人で、藤原継蔭の娘である。宇多天皇の中宮温子に仕え、中務の母となった。三十六歌仙に数えられる。
初句「いづこにも」は、どこにでも、の意である。
二句「咲きはすらめど」は、咲いてはいるだろうけれど、の意で、「らめ」は現在推量の助動詞「らむ」の已然形、「ど」は逆接の接続助詞である。
三句「我が宿の」は、自分の家の、の意で、どこにでもある花と我が家の花を対比させる。本巻の第八十首、第八十四首でも「我が宿の」が詠まれ、身近な家の花を称える心が共通している。
四句「やまとなでしこ」は、日本在来のなでしこをいう。なでしこは「撫でし子」に通じ、いとしい子にたとえられる花である。
結句「誰に見せまし」は、誰に見せたらよいだろうか、の意で、「まし」はためらいを表す助動詞である。
やまとなでしこ:日本在来のなでしこ。カワラナデシコ。唐撫子に対していう
- 作者
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伊勢
- 出典
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拾遺和歌集
- 前の歌
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松影の岩井の水をむすびあげて 夏なき年と思ひけるかな
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底清み流るる河のさやかにも はらふることを神は聞かなん