見れど飽かぬ吉野の河の流れても
絶ゆる時なく行き帰り見む
- 歌の意味
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見ても見飽きることのない吉野川の流れのように、絶えることもなく、何度でも行き来して見よう。
- 鑑賞
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巻第九 雑歌下 570
詞書「反歌」
見飽きることのない吉野川の流れのように、絶えることなく何度でも行き来してこの地を見ようと詠む歌である。詞書の「反歌」から、前に置かれた吉野の宮をたたえる長歌の第五百六十九首に添えられた反歌とわかる。長歌の結句「見れど飽かぬかも」を受けて初句に置き、吉野の宮の永遠の繁栄を、絶えることのない川の流れに重ねてたたえている。
作者の「人まろ」は柿本人麻呂である。持統天皇、文武天皇の時代に仕えた宮廷歌人で、歌聖と称される。
万葉集の巻一に、柿本人麻呂が吉野の宮に行幸した折の長歌の反歌として、ほぼ同じ趣の歌が見える。
初句「見れど飽かぬ」は、見ても見飽きることのない、の意で、六音の字余りの句である。長歌の第五百六十九首の結句「見れど飽かぬかも」を受けている。
二句「吉野の河の」は、吉野川の、の意で、大和国の吉野を流れる川である。前の前の歌の第五百六十三首の三句「吉野山」と、吉野の地名を共有している。
三句「流れても」は、流れるように、の意で、ここまでが四句の「絶ゆる時なく」を導く序の役割を果たしている。
四句「絶ゆる時なく」は、絶える時もなく、の意で、川の流れと吉野の宮をたたえる心の永続を重ねている。
結句「行き帰り見む」は、何度でも行き来して見よう、の意で、「む」は意志の助動詞である。
はんか:反歌。長歌の後に添えて内容をまとめたり補ったりする短歌
- 作者
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柿本人麻呂
- 出典
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拾遺和歌集
- 前の歌
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老いはてて雪の山をば戴けど しもと見るにぞ身は冷えにける
- 次の歌
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如何せむ我が身くだれるいな舟の しばしばかりの命絶えずは