ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし
今は我が身の惜しけくもなし
- 歌の意味
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神の社の斎垣さえも越えてしまいそうだ。今となっては、我が身が惜しいとも思わない。
- 鑑賞
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巻第十四 恋歌四 924
詞書は前の歌に続き「題しらず」
恋のためなら、人が越えてはならない神の社の斎垣さえ越えてしまいそうだ、今はもう我が身など惜しくはないと詠む歌である。神罰をも恐れない、身を捨てた激しい恋心を詠んでいる。神域の垣を越えることは禁忌であり、その禁を破ってでも恋人に逢おうとする覚悟が示されている。
作者の「柿本人麿」は柿本人麻呂である。飛鳥時代の宮廷歌人で、万葉集を代表する歌人として歌聖と仰がれ、三十六歌仙に数えられる。拾遺和歌集には、万葉集の歌が人麻呂の作として多く収められている。
本巻の巻末の歌である。巻頭の第八百四十九首も人麻呂の作とされる歌で、巻の始めと終わりを人麻呂の歌が飾っている。巻頭が手枕に触れた髪をいとおしむ、共寝の朝の余韻を詠むのに対し、巻末は神の斎垣も越えるほどの激しい恋心で結び、恋の思いの深さで呼応している。
万葉集巻十一に、四句を「今は我が名の」とする類歌が収められている。
初句「ちはやぶる」は、「神」にかかる枕詞である。本巻の第八百六十八首の三句「ちはやぶる」と、神を詠む歌として呼応している。
二句「神の斎垣も」は、神の社の神聖な垣までも、の意で、「も」は、さえ、の意である。
三句「越えぬべし」は、越えてしまいそうだ、きっと越えてしまうだろう、の意で、「ぬ」は完了の助動詞、「べし」は推量の助動詞である。ここで句切れとなる。
四句「今は我が身の」は、今となっては我が身が、の意である。巻頭の第八百四十九首が「人の手枕」と恋人の身を慕うのに対し、巻末は我が身を顧みない心を詠んでいる。
結句「惜しけくもなし」は、惜しいとも思わない、の意で、「惜しけく」は形容詞「惜し」のク語法である。本巻の第八百七十首の結句「惜しくもあるかな」が相手の命を惜しむのに対し、ここでは我が身を惜しまない心で巻を閉じている。
いがき:斎垣。神社など神聖な場所の周りに巡らした垣
- 作者
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柿本人麻呂
- 出典
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拾遺和歌集
- 前の歌
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あたらしと何に命を思ひけん 忘れば古くなりぬべき身を
- 次の歌
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泣く涙世はみな海となりななん 同じ渚に流れ寄るべく