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年ごとに春はくれども池水に
生ふるぬなはは絶えずぞ有りける

歌の意味
毎年春は来ては暮れていくけれども、池の水に生える蓴菜は、いくら繰っても絶えることなくあることだ。
鑑賞
巻第十六 雑春歌 1058

詞書「題しらず」
 毎年春は来ては過ぎていくけれども、池の水に生えるぬなはは、繰っても絶えることなくあると詠む歌である。「来る」と、ぬなはを手繰る「繰る」を掛け、春が移り過ぎていくのに対して、絶えることのない池のぬなはを詠んでいる。前歌の第千五十七首が春ごとに古びていく我が身を嘆いたのに対し、この歌は春ごとにも絶えないものを詠み、同じ初句から対照的な趣を示している。
 作者の「したかふ」は源順である。嵯峨源氏の出で、梨壺の五人の一人として後撰和歌集の撰進と万葉集の訓読にあたり、辞書の和名類聚抄を編んだ。三十六歌仙に数えられる。

 初句「年ごとに」は、毎年、の意で、前歌の第千五十七首の初句と同じ句である。
 二句「春はくれども」は、春は来るけれども、の意で、「くれ」は春が「来れ」と、ぬなはを「繰れ」を掛ける掛詞である。本巻の第千一首の二句「年は来れども」と、同じ逆接の形で年の移りを詠んでいる。
 三句「池水に」は、池の水に、の意である。
 四句「生ふるぬなはは」は、生えている蓴菜は、の意である。
 結句「絶えずぞ有りける」は、絶えることなくあることだ、の意で、係助詞「ぞ」を受けて過去の助動詞「けり」の連体形「ける」で結ぶ係り結びである。「繰る」と「絶ゆ」は、ぬなはの長い茎の縁語をなしている。

ぬなは:蓴。じゅんさいの古名。長い茎を手繰って採る
くる:春が「来る」意と、ぬなはを「繰る」意を掛ける
作者
源順
出典
拾遺和歌集
前の歌
年ごとに春のながめはせしかども 身さへふるとも思はざりしを
次の歌
春風はのどけかるべし八重よりも 重ねてにほへ山吹の花