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霜枯れに見えこし梅は咲きにけり
春には我が身逢はむとはすや

歌の意味
霜枯れのように見えてきた梅は、もう咲いたことだ。それなのに我が身は、春に巡り逢おうとはしないのだろうか。
鑑賞
巻第十七 雑秋歌 1155

詞書「師走の晦日頃に、身の上を嘆きて」
 霜枯れのように見えていた梅はもう咲いて春を迎えたのに、我が身は春に巡り逢うことがあるのだろうかと詠む歌である。詞書から、十二月の末頃に、我が身の境遇を嘆いて詠んだ歌とわかる。春を迎えて咲く梅と、栄えの春の訪れない我が身とを対比し、不遇を嘆いている。
 次の第千百五十六首、第千百五十七首とともに、年の暮れに梅と春を詠む歌が続き、本巻の第千百五十七首、巻末の第千百五十八首とともに、貫之が年の暮れに我が身を嘆く歌が並んでいる。
 作者の「つらゆき」は紀貫之である。古今和歌集の撰者の中心人物で、仮名序を執筆し、土佐日記を著した。三十六歌仙に数えられる。

 初句「霜枯れに」は、霜枯れのように、の意で、前歌の第千百五十四首の三句「霜枯れの」と同じ語を共有している。
 二句「見えこし梅は」は、見えてきた梅は、の意で、「こ」は「来」、「し」は過去の助動詞「き」の連体形である。
 三句「咲きにけり」は、咲いたことだ、の意で、「けり」は気づきの詠嘆を表す。ここで句切れとなる三句切れの歌である。
 四句「春には我が身」は、春には我が身は、の意である。
 結句「逢はむとはすや」は、逢おうとはするのだろうか、の意で、「や」は疑問の終助詞である。我が身にも栄えの春が巡ってくるのかと、危ぶむ心を表している。

しはす:師走。陰暦十二月
つごもり:晦日。月の末
作者
紀貫之
出典
拾遺和歌集
前の歌
さわらびや下にもゆらん霜枯れの 野原の煙春めきにけり
次の歌
梅の花匂ひの深く見えつるは 春の隣の近きなりけり