- 歌の意味
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あなたがいなくなって立ちこめる朝霧は、まるで喪服のようだ。人ばかりか池までもが、霧の喪服を着ているのが悲しいことだ。
- 鑑賞
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巻第二十 哀傷 1288
詞書「朱雀院の御四十九日の法事に、かの院の池の面に霧の立ちわたりて侍りけるを見て」
あなたがいなくなって立ちこめる朝霧は喪服のようで、池までもがそれを着ているのが悲しいと詠む歌である。詞書から、院の四十九日の法事の折、その院の池の面に霧が一面に立ちこめているのを見て詠んだ歌とわかる。池を覆う灰色の霧を喪服に見立て、「霧る」に「着る」を掛けて、人ばかりか院の池までもが主の死を悼んでいると詠んでいる。
詞書の朱雀院について、作者の敦忠は天慶6年(943)に没しており、朱雀上皇の崩御より前であるため、誰の四十九日を指すかには諸説がある。
作者の「権中納言敦忠」は藤原敦忠である。左大臣藤原時平の子で、権中納言に至った。三十六歌仙に数えられ、百人一首の「逢ひ見ての」の歌で知られる。
なお本文の三句は「麻衣」と表記し、読み仮名の行は「ふちころも」とする。喪服をいう語とみて、読みは読み仮名の行に従った。
初句「君なくて」は、あなたがいなくなって、の意で、亡くなった院をいう。
二句「立つ朝霧は」は、立ちこめる朝霧は、の意である。
三句「麻衣」は、喪服、の意で、霧を喪服に見立てている。ここで句切れとなる三句切れの歌である。
四句「池さへきるぞ」は、「きる」が霧が「霧る」と、喪服を「着る」を掛ける掛詞である。「さへ」は、人ばかりか池までも、の意を表す。係助詞「ぞ」は結句の連体形「ける」で結ぶ係り結びである。
結句「悲しかりける」は、悲しいことだ、の意で、「ける」は詠嘆の助動詞「けり」の連体形である。
きる:霧が「霧る」意と、喪服を「着る」意を掛ける
ふぢごろも:藤衣。喪服
しじふくにち:四十九日。人の死後四十九日目の法事
- 作者
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藤原敦忠
- 出典
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拾遺和歌集
- 前の歌
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去年見てし秋の月夜は照らせども 相見し妹はいや遠ざかり
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我妹子が寝くたれ髪を猿沢の 池の玉藻と見るぞ悲しき