- 歌の意味
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どうしてこれほど深く時鳥に心を寄せはじめたのだろう。その声が、雪山で求められた仏法の、残りの教えでもあるまいに。
- 鑑賞
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巻第三 夏歌 192
詞書「瞻西上人雲居寺の房にて、未飽郭公といへる心をよめる」
瞻西上人の雲居寺の僧坊で、「未飽郭公(いまだ飽かぬ時鳥)」という題で詠んだ歌である。どうしてこれほど時鳥に心を寄せはじめ、いくら聞いても飽きないのだろう、時鳥の声が、雪山で求められた仏法の残りの教えというわけでもあるまいに、と詠む。雪山童子が偈の後半を聞くために身を捨てたという仏典の説話を踏まえ、時鳥の声への飽くなき執着を、仏法を求める心になぞらえている。僧坊での歌会にふさわしく、仏教の故事を織り込んだ一首である。
作者の「源俊頼朝臣」は大納言源経信の子である。堀河院歌壇の中心的な歌人で、白河院の院宣を受けて金葉和歌集を撰び、歌論書「俊頼髄脳」を著した。小倉百人一首にも歌が採られている。
雪山童子は、雪山で修行中に羅刹から偈の前半を聞き、後半を聞くために身を投げ出したと涅槃経に説かれる、釈迦の前身である。
初句「などてかく」は、どうしてこのように、の意で、二句の「けん」と呼応する。
二句「思ひ初めけん」の「初む」は〜しはじめる意、「けん」は過去の原因推量の助動詞「けむ」の連体形である。心を寄せはじめたのだろうか、の意で、ここで句切れとなる。
三句「時鳥」は、心を寄せる対象を示す。
四句「雪の深山の」の「雪の深山」は雪山、すなわちヒマラヤの山々をいい、雪山童子の説話を指す。
結句「法の末かは」の「法の末」は仏法の偈の後半、残りの教えをいう。「かは」は反語で、仏法の残りの教えでもあるまいに、の意となる。聞き飽きない心を、偈の後半を求めた童子になぞらえる。本巻の第百四十九首、第百六十六首が二声目を待つ心を詠んだのと同じく、一声では満ち足りない心を詠む。
ゆきのみやま:雪山、ヒマラヤの山々で、雪山童子の説話の地
のり:仏法
ばう:僧の住む部屋、僧坊
- 作者
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源俊頼
- 出典
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千載和歌集
- 前の歌
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いにしへを恋ひつつひとり越えくれば なきあふ山の時鳥かな
- 次の歌
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五月闇二村山の時鳥 峰続き鳴く声を聞くかな