いつとても惜しくやはあらぬ年月を
禊に捨つる夏の暮かな
- 歌の意味
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いつであっても惜しくないことがあろうか、過ぎてゆく年月は。その年月を、禊とともに流し捨てる夏の暮れであることよ。
- 鑑賞
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巻第三 夏歌 224
詞書は前の歌に続き「百首歌奉りける時、六月祓をよめる」
前歌と同じく崇徳院に奉った百首歌で、「六月祓」を題として詠んだ歌である。過ぎてゆく年月は、いつであっても惜しくないことはない、それなのに六月祓の禊で、罪や穢れとともに、半年の年月までも流し捨ててしまう夏の暮れであることよ、と詠む。罪穢れを祓う禊を、惜しむべき年月を捨てる行いととらえ、夏の終わりに過ぎゆく時を惜しむ心を表している。撰者俊成みずからの歌である。
作者の「皇太后宮大夫俊成」は藤原俊成である。権中納言藤原俊忠の子で、皇太后宮大夫を務め、正三位に至った。後白河院の院宣を受けて千載和歌集を撰んだ撰者その人であり、小倉百人一首にも歌が採られている。
初句「いつとても」は、いつであっても、の意である。
二句「惜しくやはあらぬ」の「やは」は反語で、惜しくないことがあろうか、いや惜しい、の意となる。
三句「年月を」は、過ぎてゆく年月を、の意である。
四句「禊に捨つる」は、禊とともに流し捨てる、の意である。前歌の第二百二十三首の禊を受け、祓い捨てるものを年月と見る。
結句「夏の暮かな」の「かな」は詠嘆である。巻第二の第百三十四首、第百三十五首が「春の暮」を題として春の終わりを惜しみ巻を結んだのに対し、本歌は夏の暮を惜しみ、本巻の終わりに近づく。
みそぎ:水で身を清めて罪や穢れを祓うこと
- 作者
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藤原俊成
- 出典
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千載和歌集
- 前の歌
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今日来れば麻の立ち枝に木綿かけて 夏みな月の禊をぞする
- 次の歌
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禊する川瀬にさ夜や更けぬらん 帰る袂に秋風ぞ吹く