- 歌の意味
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夕方になると、野辺を吹く秋風が身にしみて、鶉が鳴いているようだ、この深草の里では。
- 鑑賞
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巻第四 秋歌上 259
詞書は前の歌に続き「百首歌奉りける時、秋の歌とてよめる」
前歌と同じく久安百首で「秋」を題として詠んだ歌である。夕方になると、野辺を吹く秋風が身にしみて、荒れ果てた深草の里に鶉の鳴く声が聞こえてくる、と詠む。伊勢物語の深草の女の物語を背景に、秋の夕べの寂しさを、身にしむ風と鶉の声とで余情深く描いた一首で、俊成自身が代表作として重んじた歌と伝えられる。
作者の「皇太后宮大夫俊成」は藤原俊成である。権中納言藤原俊忠の子で、皇太后宮大夫を務め、正三位に至った。後白河院の院宣を受けて千載和歌集を撰んだ撰者その人であり、小倉百人一首にも歌が採られている。
伊勢物語の、男に去られようとする深草の女が「野とならば鶉となりて鳴きをらむ」と詠んだ話を踏まえる。野となった深草の里に鳴く鶉の声に、去った男を待つ女の面影を重ねている。
初句「夕されば」は、夕方になると、の意である。本巻の第二百五十五首、第二百七十二首も同じ初句を置き、秋の夕べを詠む。
二句「野辺の秋風」は、野を吹く秋風で、深草の里がすでに野となっていることを示す。
三句「身にしみて」は、身にしみて感じられて、の意である。本巻の第二百三十二首「音ぞ身にしむ」、第二百三十三首「まづ身にしむは」、第二百九十首「身にぞしみける」も、秋風の身にしむさまを詠む。
四句「鶉鳴くなり」の「なり」は、音や声をもとに判断する推定の助動詞で、鶉が鳴いているようだ、の意である。ここで句切れとなる。
結句「深草の里」は体言止めで、山城国の地名である。伊勢物語の深草の女の話を背景とし、荒れた里の寂しさを示す。次歌の第二百六十首は隣接する伏見の里を詠み、ともに「の里」で結ぶ。
うづら:キジ科の鳥で、荒れた野で鳴くものとして詠まれた
ふかくさ:山城国(今の京都市伏見区)の地名で、荒れた里として詠まれた
- 作者
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藤原俊成
- 出典
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千載和歌集
- 前の歌
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野分する野辺の気色を見る時は 心なき人あらじとぞ思ふ
- 次の歌
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なにとなく物ぞ悲しき菅原や 伏見の里の秋の夕暮