- 歌の意味
-
澄んだ水を心がないなどと誰が言うのか。氷となって、冬の始まりさえ知っているではないか。
- 鑑賞
-
巻第六 冬歌 392
詞書は前の歌に続き「百首歌召しける時、初冬の心をよませ給うける」
久安百首の初冬の題で詠んだ歌である。澄んだ水を心のないものだと誰が言うのか、氷となって冬の始まりさえ知っているではないか、と詠む。季節の変わり目を知って凍りはじめる水に、人のような心を認める機知の歌である。
作者の「大納言隆季」は藤原隆季である。中納言藤原家成の子で、権大納言に至った。四条家の祖とされ、崇徳院の久安百首の作者の一人である。
第三百九十首から第三百九十四首までの五首は、崇徳院の久安百首から採られた初冬の歌である。久安百首は、崇徳院が藤原顕輔、藤原俊成らに召した百首歌で、久安六年(1150)に詠進された。
初句「澄む水を」は、清らかに澄んだ水を、の意である。
二句「心なしとは」は、心がないとは、の意で、情を解さないものとみなすことをいう。本巻の第四百五十六首も、凍る池に「心ありても」と心を認めている。
三句「誰か言ふ」の「か」は反語の係助詞で、誰が言うのか、誰も言えはしない、の意である。ここで句切れとなる。
四句「氷ぞ冬の」の「ぞ」は強意の係助詞で、結句の「知る」と連体形で結ぶ。氷こそがその証しだ、と強める。
結句「初めをも知る」の「も」は、〜さえも、の意で、冬の始まりという微妙な時さえ知っている、と水の心の細やかさを示す。
こころなし:情趣や物の道理を解さないこと
- 作者
-
藤原隆季
- 出典
-
千載和歌集
- 前の歌
-
さまざまの草葉も今は霜枯れぬ 野辺より冬や立ちて来つらん
- 次の歌
-
秋のうちはあはれ知らせし風の音の 激しさ添ふる冬は来にけり