悲しさをかつは思ひも慰めよ
誰もつひには止まるべきかは
- 歌の意味
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悲しさを、一方ではご自分で思い慰めなさい。誰も最後までこの世にとどまっていられるものだろうか、誰もがいつかは去ってゆくのだ。
- 鑑賞
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巻第九 哀傷歌 558
詞書「大納言長家、大納言斉信の娘に住み侍りけるを、女の身まかりにける頃、法住寺に籠りゐて侍りけるに、遣はしける」
藤原長家が藤原斉信の娘を妻としていたが、その妻が亡くなり、長家が法住寺に籠もっていた時に贈った歌である。悲しさを一方ではご自分で思い慰めなさい、誰も最後までこの世にとどまれるものではないのだから、と詠む。人は誰もいつかは死ぬという無常の道理を示して、妻を失った長家を慰めている。長家の妻は万寿二年(1025)に亡くなった。
作者の「大弐三位」は藤原賢子である。藤原宣孝と紫式部の娘で、後冷泉天皇の乳母を務め、大宰大弐高階成章の妻となったことからこの名で呼ばれた。小倉百人一首にも歌が採られている。
次歌の第五百五十九首は長家の返歌で、本歌の「誰もつひには止まるべきかは」を「誰もみな止まるべきにはあらねども」と受けている。
初句「悲しさを」は、妻を失った悲しさを、の意である。
二句「かつは思ひも」の「かつは」は、一方では、の意で、悲しみながらも一方では、という気持ちを表す。
三句「慰めよ」は「慰む」の命令形で、慰めなさい、の意である。ここで句切れとなる。
四句「誰もつひには」は、誰もが最後には、の意である。次歌の第五百五十九首の初句「誰もみな」と対応する。
結句「止まるべきかは」の「かは」は反語で、この世にとどまっていられるだろうか、いやとどまれない、の意である。
すむ:男が女のもとに通い、夫婦として暮らす
こもりゐる:寺などに籠もって過ごす
- 作者
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藤原賢子
- 出典
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千載和歌集
- 前の歌
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玉貫きしあやめの草はありながら よどのは荒れん物とやは見し
- 次の歌
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誰もみな止まるべきにはあらねども 後るるほどは猶ぞ悲しき