百千度浦島の子は帰るとも
藐姑射の山は常盤なるべし
- 歌の意味
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たとえ浦島の子が百千度帰ってくるほどの長い年月が過ぎても、藐姑射の山は変わることなく常盤であるにちがいない。
- 鑑賞
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巻第十 賀歌 626
詞書「摂政右大臣に侍りける時、百首歌詠ませ侍りけるに、祝歌五首が内に、詠み侍りける」
本集の撰集当時の摂政九条兼実がまだ右大臣であった時に、人々に百首歌を詠ませた折、祝いの歌五首のうちに詠んだ歌である。浦島の子が百千度帰ってくるとしても、藐姑射の山は常盤であるにちがいない、と詠む。浦島の子は海神の宮で過ごした間に、故郷では長い年月が過ぎていたという伝説の人物である。その浦島が百千度も帰るほどの途方もない年月を経ても、仙洞の御所は変わらず栄えると詠み、上皇の長寿を祝っている。この百首歌は治承二年(1178)の右大臣家百首である。
作者の「皇太后宮大夫俊成」は権中納言藤原俊忠の子である。皇太后宮大夫を務め、のちに出家して釈阿と号した。後白河院の命を受けて本集を撰んだ。
前歌の第六百二十五首と同じく藐姑射の山を詠み、仙洞を祝う歌が二首続く。前歌は松の陰に、本歌は浦島の伝説に寄せて、その永遠を詠んでいる。
初句「百千度」は、百度も千度も、の意で、数限りない回数をいう。
二句「浦島の子は」の「浦島の子」は、海神の宮に招かれ、帰郷すると長い年月が過ぎていたという伝説の人物である。
三句「帰るとも」の「とも」は逆接仮定の接続助詞で、たとえ帰ってきても、の意である。
四句「藐姑射の山は」は仙洞の御所をいう。前歌の第六百二十五首の四句と同じ語である。
結句「常盤なるべし」の「常盤」は永久に変わらないこと、「べし」は推量の助動詞で、永遠に変わらないにちがいない、の意である。巻末の第六百四十首の初句「常盤なる」と響き合う。
ときは:永久に変わらないこと
はこやのやま:仙人の住む山。転じて上皇の御所、仙洞
- 作者
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藤原俊成
- 出典
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千載和歌集
- 前の歌
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動きなくなほ万代ぞ頼むべき 藐姑射の山の峰の松陰
- 次の歌
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幾千代と限らぬ鶴の声すなり 雲居の近き宿のしるしに