天地の極めも知らぬ御代なれば
雲田の村の稲をこそ舂け
- 歌の意味
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天地の果ても知らないほど限りなく続く御代であるから、雲田の村の稲をこうして舂くのである。
- 鑑賞
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巻第十 賀歌 638
詞書「同じ大嘗会の主基方稲☆歌、丹波国雲田村を詠める」
前歌と同じ平治元年(1159)の大嘗会で、主基方の稲舂歌として丹波国の雲田村を詠んだ歌である。天地の果ても知らない御代であるから、雲田の村の稲を舂くのだ、と詠む。限りなく続く御代のために、神に供える稲を舂くと詠み、雲田という地名に天の雲を響かせて、天地とともに続く御代を祝っている。なお詞書の一字は本文で「☆」と表記されて判読できないが、本巻の第六百三十五首の詞書の例から「稲舂歌」とみられる。
作者の「刑部卿範兼」は藤原範兼である。藤原南家の学者で、大学頭、刑部卿を務めた。歌学書「和歌童蒙抄」「五代集歌枕」を著した。
本巻の第六百三十五首も主基方の稲舂歌で、ともに神に供える稲を詠む。
初句「天地の」は、天と地の、の意である。
二句「極めも知らぬ」の「極め」は果て、限りの意で、果ても知らない、の意である。
三句「御代なれば」は、御代であるから、の意で、已然形に「ば」が付いた確定条件である。
四句「雲田の村の」の「雲田の村」は丹波国の地名で、主基方の国の地名を詠み込む。「雲」が初句の「天地」と響き合う。第六百三十五首の二句「神田の里の」と同じく、稲を作る地を詠む。
結句「稲をこそ舂け」の「舂け」は臼で穀物をついて殻を取る意の「舂く」の已然形で、強意の係助詞「こそ」を受けて結ぶ。
つく:臼に入れた穀物を杵でついて殻を取る
きはめ:果て、限り
いねつきうた:大嘗会で神に供える稲を舂く時に歌う歌
- 作者
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藤原範兼
- 出典
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千載和歌集
- 前の歌
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君が代の数には如かじ限りなき 千坂の浦の真砂なりとも
- 次の歌
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霜降れど栄えこそ増せ君が代に あふさか山の関の杉森