誰もみな露の身ぞかしと思ふにも
心とまりし草の庵かな
- 歌の意味
-
誰もがみな露のようにはかない身なのだと思うにつけても、私の心が引きとめられた、あの草の庵であることだ。
- 鑑賞
-
巻第十七 雑歌中 1135
詞書「高野に参りて侍りけるに、奥の院に静蓮法師が庵室にまかりたりけるに、あはれに見え侍りければ、帰りて遣はしける」
高野山に参詣した折、奥の院にある静蓮法師の庵室を訪ねたところ、しみじみと心を打たれたので、帰ってから贈った歌である。誰もみな露のようにはかない身だと思うにつけても、心がとどまった草の庵であることだ、と詠む。人は誰しも露のようにはかない命であると思うと、世を捨てて静かに仏道に励む静蓮の草庵の暮らしこそが尊く思われ、心がそこに引きとめられたと、訪問の感慨を伝えている。
作者の「権大納言実国」は藤原実国である。内大臣藤原公教の子で、権大納言に至った。笛の名手として知られた。
本巻の第千百八首の三句「とまりなん」と「心とまる」を共有する。また本巻の第千百七首と同じく、高野山にまつわる歌である。
初句「誰もみな」は、誰もがみな、の意である。
二句「露の身ぞかしと」の「露の身」は露のようにはかない身の意で、「ぞかし」は強く念を押す言い方である。八音の字余りである。
三句「思ふにも」は、思うにつけても、の意である。
四句「心とまりし」は、心が引きとめられた、の意である。本巻の第千百八首の二句、三句「心もとまりなん」と「心とまる」を共有する。
結句「草の庵かな」は、草で葺いた粗末な住まいであることよ、の意で、「草」は二句の「露」の縁語である。
つゆのみ:露のようにはかない身
あんじつ:僧の住む庵
おくのゐん:高野山の奥にある空海の廟所
- 作者
-
藤原実国
- 出典
-
千載和歌集
- 前の歌
-
岩そそく水よりほかに音せねば 心ひとつを澄ましてぞ聞く
- 次の歌
-
なほざりに帰る袂は変はらねど 心ばかりぞ墨染の袖