澄めば見ゆ濁れば隠る定めなき
この身や水に宿る月影
- 歌の意味
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水が澄めば見え、濁れば隠れる、定めのないこの身は、水に宿る月の影なのだろうか。
- 鑑賞
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巻第十九 釈教歌 1224
詞書「維摩経十喩、此身如水中月といへる心を詠める」
維摩経十喩のうち、この身は水の中の月のようだ、という句の心を詠んだ歌である。澄めば見え濁れば隠れる、定めないこの身は水に宿る月影であろうか、と詠む。水の澄み濁りによって現れたり消えたりする水中の月に、縁によって生じ滅する、実体のない身のはかなさを重ねている。
作者の「宮内卿永範」は藤原永範である。藤原南家の儒者で、文章博士を経て宮内卿に至った。
巻頭の第千二百二首と次の第千二百三首に続く維摩経十喩の歌で、第千二百二首が水の泡を、第千二百三首が浮雲を詠んだのに対し、本歌は水中の月を詠む。
初句「澄めば見ゆ」は、水が澄めば月が見える、の意である。
二句「濁れば隠る」は、水が濁れば隠れる、の意で、初句と対句となっている。
三句「定めなき」は、定まりのない、の意で、四句の「この身」にかかる。本巻の第千二百三首の初句「定めなき」と同じ句で、ともに十喩によって身の無常を詠む。
四句「この身や水に」の「や」は疑問の係助詞で、この身は水に宿る月影であろうか、と問う形になっている。本巻の第千二百十八首の二句「心の水に」と同じく、水に映る月によって身と心を詠む。
結句「宿る月影」は、水に映っている月の光の意で、体言止めとなっている。
つきかげ:月の光、また水に映る月の姿
- 作者
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藤原永範
- 出典
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千載和歌集
- 前の歌
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人ごとに変はるは夢の惑ひにて 覚むれば同じ心なりけり
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いとどしく昔の跡や絶えなんと 思ふも悲し今朝の白雪