- 歌の意味
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弥勒の現れる暁を高野の山で待つ間のことだろうか。苔の下にも、有明の月が照っている。
- 鑑賞
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巻第十九 釈教歌 1236
詞書「高野に参りて詠み侍りける」
高野山に参詣して詠んだ歌である。暁を高野の山で待つ間であろうか、苔の下にも有明の月がある、と詠む。高野山の奥の院では、弘法大師が入定したまま、弥勒菩薩が下生する遠い未来の暁を待っていると信じられていた。苔むした御廟の下にも、暁を待つ有明の月が照っているのだろうと、大師の永遠の禅定を有明の月に重ねて詠んでいる。
作者の「寂蓮法師」は俗名を藤原定長といい、藤原俊海の子で、伯父藤原俊成の養子となった。のちに出家し、『新古今和歌集』の撰者に任じられた。
本巻の第千二百十首も、弥勒の現れる暁を待つ間の闇を照らせと詠み、暁を待つ心を共有している。
初句「暁を」の「暁」は、弥勒菩薩がこの世に下生して衆生を救う時を言う。本巻の第千二百十首の二句「その暁を」と同じく、仏の現れる暁を待つ心を詠む。
二句「高野の山に」は紀伊国の高野山で、弘法大師空海が開き、入定した地である。
三句「待つほどや」の「や」は疑問の係助詞で、待つ間であろうか、の意である。
四句「苔の下にも」の「苔の下」は苔むした墓の下で、大師の入定する御廟を言う。
結句「有明の月」は、夜が明けても空に残る月で、暁を待つ大師の心を重ねている。体言止めとなっている。
にふぢやう:高僧が禅定に入ったまま生き続けるとされること
ありあけ:月が空に残ったまま夜が明けること、またその月
こけのした:苔の生えた墓の下
- 作者
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寂蓮
- 出典
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千載和歌集
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驚かぬわが心こそ憂かりけれ はかなき世をば夢と見ながら
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