伊勢物語
神様をかこっている周囲の垣をも超えてしまいそうです。宮廷からおいでになった方が見たくて。
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恋しいのなら来てごらんなさい。恋は神様が禁止なさるものでもないのだから。
伊勢の国の大淀の海岸に生えている松は薄情ではないのに、浦辺にうちよせて海岸を見ただけで引き返す波であることよ
目では見ながら手には取ることのできない月の中の桂のようなあなたである
大きな岩を踏んで上る重なり続いた険しく深い山ではなく、逢いに行くのは簡単なはずなのに、逢わない日が多く、恋焦がれている
大淀の浜に生えるという海松を見に行くと言葉を聞き、お目にかかっただけで私の心は安らかに落ち着きました。これ以上、睦言を交わさなくても
袖を濡らして漁夫が刈り取って干す海松(みる)を思っているだけで、袖を涙で濡らしながら切に頼む私の顔を見るだけですませようとするのか。
岩の間から生えている海松布(みるめ)が変わることがないのは、潮がひいて行き、また満ちて来て貝がつくこともあるだろう。
私が涙で濡らした袖をしぼると、したたり落ちる雫はあなたの無情な心そのものか。
大原野において、この小塩山のふもとにある氏神様も、藤原氏出身の東宮の母の御息所が参拝になった今日のこの日には神代のことも思いだしているでしょう。
山が全て移動して来て今日の法要に参会するのは名残惜しい春の終わりの女御との別れを弔うためなのだろう。
十分ではないが私の心をこの岩に代えてお見せします。外見にあらわすことのできない私の心をお見せしようにも方法がないので。
我が家の門に大きな陰をつくる大木を植えたので夏の日差しが強い時、冬の風がつよく大雪の時、一門のこの木陰に隠れないだろうか。
雨に濡れながら無理に藤の花が咲いている枝を折りました。今年のうちに春は幾日もないだろうと思ったので。
塩竃(しおがま)にいつのまに来てしまったのであろうか。朝の風も吹かない海で魚釣りをする舟は、ここに寄って来て欲しい。
この世の中にまったく桜がなかったのならば春の人の心はのんびりとするだろうに。