山家集 - 西行
いいかげんに焼き捨てた野の早蕨は、折り取る人もいないまま、伸びほうけた蕨になってしまうのだろうか。
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沼の水に茂る真菰が一面に続いて見分けもつかないところを、咲いて隔てを作っている杜若であることよ。
岩を伝いながら、躑躅を折り取るのではなく手につかむ。険しい山道でつかまる所として。
躑躅の咲く山の岩陰は夕日に照り映えて明るく、小暗いという名の小倉山も、よその山の名にすぎないのだった。
こんなに岸に近いところに植えたであろう人が恨めしい。波に折られてしまう山吹の花よ。
山吹の花の咲く里になったので、ここもまた井手の里かと思われることだ。
菅の生える山の田に水を引き入れると、いかにもうれしそうに鳴く蛙であることよ。
水錆が浮いて月の光も映らない濁った入り江に、自分が住もう、この水を澄ませようと言って、蛙が鳴いているようだ。
うれしいとも、はっきり思い分けることができない、ほととぎすの声は。春に聞くことなど、ならいではないのだから。
過ぎ去っていく春は、潮の満ちる三津の浦から船出して、波の花を先に立てて行くのだろうか。
春のために、せめて物思いでもせよというのだろうか。三月は三十日にさえ足りないまま暮れてしまった。
春は今日限りと思うと、長いはずの春の日も、すぐに暮れてしまうような気持ちがする。
過ぎ去っていく春を引きとめることのできない夕暮れは、春の曙よりもいっそう、しみじみと心にしみるものであった。
季節には限りがあるので、衣だけは夏のものに脱ぎ替えたけれども、心はなお過ぎ去った春を慕っているのだった。
草の生い茂った道を刈り開けてみて、山里では、春に花を見に来た人の心がよくわかることだ。
竜田川の岸に結われた垣根を見渡すと、井堰に立つ白波と見まがうばかりに卯の花が咲いている。