山家集 - 西行
ほととぎすの、聞いたとも聞かなかったとも判断のつかないほどのたった一声を、聞いたなどとどうして人に語れようか。
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ほととぎすの声を、どれほどの深い縁があって、あの人は心を尽くして待つこともなく聞いているのだろうか。
親しく語りかけてくれたあの夜の声は、ほととぎすよ、どのような世になっても忘れることがあろうか、いや決して忘れはしない。
ほととぎすよ、花橘がどれほど香り高く咲いていても、つらい身の上の私が住む、卯の花の垣根を忘れないでおくれ。
ほととぎすが忍び音に鳴く卯月も過ぎてしまったのに、なおも声を惜しんで鳴かない、五月雨の降る空であることよ。
五月雨が降り続いて晴れ間も見えない雲の中の道を通って、山ほととぎすが鳴きながら過ぎて行くようだ。
ほととぎすを聞くためにと思って籠もったわけではないが、初瀬の山はほととぎすを聞くのに好都合な所であったのだ。
ほととぎすの声に名残を残しておこうと思って帰ったのだが、それがかえって聞き捨てたことにもなってしまったのだなあ。
空が晴れて沼の水かさが減らないのなら、菖蒲を刈って軒に葺くこともできない五月になるにちがいない。
桜の花が散りかかる僧坊を飾っている菖蒲を、花菖蒲とでも言うべきなのだろうか。
山家集
散る桜の花を、今日の節句の菖蒲の根に掛けたのだから、これはむしろ薬玉とでも言うべきなのだろうか。
もし私が筑摩の沼の菖蒲であったならば、ちょうどよい節句の折に出会って、人に引かれもしただろうか。
私の心はただ西方浄土にばかり掛かっている。菖蒲を葺くこの住まいも、この世だけの仮の宿にすぎないと思うので。
世の人々の心がつらく憂いものであるのは、菖蒲を泥の中から引くように、西方浄土へと思いが引かれていかないからなのであった。
水が満ちあふれた岩の間の真菰を刈ることもできず、手ぶらのまま過ぎていく五月雨の頃であることよ。
五月雨で水かさが増しているらしい。宇治橋よ、その橋脚の蜘蛛手に、白糸のような波がかかっている。