山家集 - 西行
休むことのできる宿があると思えば、道半ばの旅も、どうして苦しいことがあろうか。
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おのずから清らかな心に磨かれて、衣の裏に掛けられていた宝玉を解き明かす仏法を知ったことだ。
清らかな宝玉を心のうちに磨き出して、幼い身でありながら悟りを得たことだ。
これがそれなのか、年が積もるまで樵り集めて、仏法に出会うために天秤棒で担った薪というのは。
どうして今、法華経を聞くことがこれほどたやすいのだろう。釈迦がいい加減に思って得た法ではないのに。
天の雲が晴れわたる空の月の光によって、恨みも慰められる姨捨の山であることよ。
どのようにして、恨んで涙に濡れていた袖に宿ったのだろう。出るのを待ちかねて見た有明の月の光が。
霊鷲山の月が沈んでしまったと見る人は、暗闇に迷っている心なのであった。
悟りを得た心の月が現れて、仏は今も霊鷲山の高嶺に住み、澄みわたっているのであった。
雲の晴れた霊鷲山の月の光を、心も澄みわたって、亡き君は今ごろ眺めていることだろうか。
霊鷲山の月を、誰が見ないことがあろうか。心にかかる雲さえ晴れたならば。
もし後の世の人々のためにと説かれた法でなかったならば、どうして私の身に頼みとするものがあろうか。
一面に散り敷いた花の美しさの名残が多いので、立ち去るのがつらかった法会の庭であることよ。
何事もすべて空であるという仏法の心によって、罪のある身だとは少しも思うまい。
霊鷲山は、その上が暗くない峰であるので、あたりの闇を払って照らす有明の月であることよ。
どういうわけで、塵に交じっている神の御鏡に、お仕えする人は清められるのだろうか。